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「自然」という日本語は明治時代まで無かった

わたし

自然に感謝、とか

自然偉大なり、とか

自分に一番近い自然は自分の体である、とか、良く書きます。

自然和食を名乗ってもいます。

でも、自分自身が自然なんです、ほんとは。

 

「自然とは明治になって外来語を訳すためにあてられた単語である。」

 

なんと。

 

「伝統的なヨーロッパの考え方には二つの特徴がある。ひとつはすべて人間を中心にして物事を考えること、第二は唯一の神が存在することである。

たとえば仏教には、生き物を殺してはならないという戒律があるが、ユダヤ教やキリスト教ではそれが、人間は殺してはならないとなっている、それにこの人間のなかには他の宗教を信ずる人は入らない。異教徒は人間ではないのである。

東洋的な考え方ではこんなふうにはならない。中国から伝わった仏教説話では人間は牛や馬にも生まれ変わるし、小さな虫になってしまうこともある。生き物はすべて同格なのである。ただ生前おこないによって生まれ方が違ってしまったことになっている。だから人間だけが特別で、残りのものを一括して自然と呼ぶ発想は生まれなかった。杉、猿、虫というように個別に呼びあってきたのであり、そのひとつが人、であった。そうでなければ人の神を敬うのと同じように山の神や水の神を尊ぶ風習は生まれなかったであろう。」(自然と労働~内山節より~)

 

つまり、自分も自然だからあえて自然と自分を区別しなかったらしい。

それに対して西洋では、自然と人間は別。こちらは聖書などを読むとよくわかります。

鎖国が解け、明治に入り「nature」という言葉に対する日本語が無かったため「自然」という言葉ができたのだそうです。

 

その原因というか、理由というか、成り立ち、歴史に注目したいですね。

その感覚、心のあり方の違い。

どちらが良いとか悪いとかではなく。このように成り立っているという事実に。

世界はグローバル化がどんどん進み、国境が無くなり、人種が入り混じる中、「自分が何者なのか」は、しっかり自分で持っておく必要があります。

わたしがわたしであるために。

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